細川流盆石
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初代家元 勝野博園
細川流の伝書に、『石術四躰』という言葉があります。
『石術四躰』とは、「盆山」、「盆庭」、「盆石」、「景砂」の四つの形態を総称したもので、それぞれ発祥と由来が伝わっています。  その中で「盆山」が最も古く、推古天皇の時代に百済国より献上された「博山香炉」の鉢の上に「霊山ノ形ナシタル石ヲ据エ回リニ白砂ヲ敷ク・・・」と有ります。日本人が古代から持っていた石に対する信仰がこのような形を取ったと思われます。

次に盆庭石(箱庭のようなもの)の時代を経て、足利八代将軍義政により、「盆石」という様式が確立されます。史上有名なのは、銀閣寺の銀沙灘(ギンシャダン)でしょう。庭師の能阿弥、芸阿弥が石庭のミニチュアとして盆石を使ったといわれています。 そして御所の文化として栄えた盆石を、現在ある様な形に完成したのは、茶人である武将の細川幽斎、三斎父子で、これより細川流盆石が誕生しました。

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江戸時代中期には、日本各地の景勝地を盆石で表現する、「盆山石図式」、「盆山百景図」等々、盆石の図版が発行され、「石」だけの時代から「砂」の時代へと移っていったのでした。そして床の間の普及と共に床飾りとしても盆石は発展して行きました。

【盆画 『富士陽光』家元 勝野功子作】



江戸末期、明治初年には、一時、盆石が衰退していたのを、盆石中興の祖・勝野博園が、明治四十三年に「かつらの巻(日本百景)」を出版し、ここに盆石の興隆を願ったのでした。  博園は、江戸時代から伝わる後水尾天皇ゆかりの「勅伝」の本、「利休好み二十八景高砂の盆」などの古典の盆石を広く世に広めました。  先々代・勝野玄鵬は、現代的手法を用いて、写実的な味わいを出す事に成功しました。また色砂を使って、「盆画」を考案しております。

戦前の博園、玄鵬のこの時代は、盆石は興隆を極め、日本だけでなく、海外にも多くの支部が結成され、会員数は、一万人を越えました。

先代家元 勝野友禧子は、戦後の盆石界の復興を目ざし、昭和38年の日本橋三越での盆石展をはじめとして、日本各地の文化教室に盆石の講座を開設しました。

盆石は、時代と共に生き、家屋の変化と共に、洋風空間にも調和する多様な形式の盆石が作られるようになってきました。  現在、家元・勝野功子は、関東、東海、関西に教室を持ち、日本各地に、支部七十八カ所が創設されており、門下生一同で、日本古来の伝統を守っております。




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